フライの雑誌93号(季刊夏号)が出ました。夏号のタイトルは「東北へ行こう!」です。
BTHRでも取り扱いをしていますので、盛岡市および近郊のお近くの方はどうぞ。
‘お知らせ’ カテゴリーのアーカイブ
東北へ行こう!
2011年6月20日 月曜日越喜来の旗
2011年5月12日 木曜日5月11日、東日本大震災から2ヶ月目の昨日、岩手めんこいテレビが夕方放映している番組のローカルニュースの中で見慣れたポスターデザインが映りました。思わず身を乗り出してテレビを見ると、以前当ブログで「いろいろな支援のかたち」というタイトルで紹介させていただいた友人のKさんのポスターデザインが旗になってたなびいていました。大きな被害を受けた大船渡市越喜来の地域の人達に支援の気持ちが届いている様子が分かって嬉しくなりました。

写真はこちらから転載させていただきました。
子供たちの笑顔に希望と未来が見えますね。
いろいろな支援のかたち
2011年4月23日 土曜日あの3月11日の大震災からひと月半が経とうとしています。近づいてきた桜の便りで季節が進んでいるのを感じます。
昨夏の猛暑で夏バテし体調を崩したことや、冬の豪雪による連日の雪かきで腰を痛めたことなどをすっかり忘れていました。
3月11日以降、自分の立場から何か出来ることはないかと考えている人は多いと思います。僕の友人でデザイナーをしているKさんはデザインを通じての支援を実行しています。彼は復興支援ポスターを制作しウェブで発信することで、被災地にいる彼の友人たちを応援しています。もちろん支援物資を送ることもしていますが、このように自分が出来ることを考えて実行する行動力はすばらしいと思います。
ウェブサイトはこちらです。
自分に今できること
2011年4月5日 火曜日「何ができるんだろう」とか「何もしていないんじゃないか」とか焦りのような感情がいつもどこかにあります。このような状況に陥ったときに、誰でもが抱く感情だと思いますが、僕は「いまの自分にできることは?」の問に、見るということを選びました。自分の住むところから遠くない場所で起きた未曽有の出来事を語り継ぐべき体験として、直にこの目でしっかり見ておこうと思いました。
3月27日に釜石へ行き、そこで津波の凄まじい破壊の様子を目の当たりにしました。4月1日に宮古市から三陸沿岸を縦断する国道45号を南下し、山田町、大槌町、そして釜石市まで見て回りました。ことに山田町と大槌町は港に面した中心市街地が壊滅し、街そのものが無くなっていました。また、点在する小さな漁港を持つ町の多くもその姿を変えていました。そのような過酷な状況のなかで道路を確保し瓦礫を撤去しながら救助活動と支援活動をする自衛隊員の姿を見ました。信号の無くなった道に立って誘導する警察官を見ました。懸命の救助活動を続ける消防団員の姿を見ました。
4月3日は気になっていた三陸沿岸北部の小さな漁港を訪ねてみました。三陸沿岸のリアス式海岸のなかでも断崖絶壁の荒々しい景観が続く北部地域は狭隘な入江に小さな漁港と集落が点在しています。そのなかのひとつ島越漁港へ行きました。あの美しい風景は一変していました。あらゆる言葉を持って来てもこの光景をどのように表現したらよいのかわかりませんでした。
この大災害から立ち直るには人も町も長い時間が必要なのだろうと感じました。いまも「自分には何もできなのではないか」という思いはありますが、ずっと見ていこうと思っています。これからの長い時間の中で自分ができることが必ずあると思って。
ふるさとは負けない
2011年3月28日 月曜日昨日3月27日、三陸沿岸の港町釜石まで行ってきました。釜石も3月11日に発生した東日本大地震による津波で大きな被害を受けました。釜石には私の叔父夫婦が住んでいて、地震の起きた11日から全く連絡が取れない状態が続いていました。沿岸地域へは緊急車両以外の通行が規制され、さらにガソリンの不足ということもあって現地へ探しに行くことも出来ませんでしたが、地震から一週間ほどしてから避難者名簿の中に叔父の名前を見つけたときはホッとしました。やっと制限はあっても何とか行って帰って来れるだけの給油をすることが出来たので、叔父の様子を確かめに釜石まで行ってきました。
幸いなことに盛岡をはじめ内陸のまちは寸断されていたライフラインも復旧し、通常の生活に戻りつつありますが、同じ県内で良く知っている場所で大災害が起きているにも関わらず、そのあまりの想像を超えた出来事を前にして思考が停止していました。今現実に起こっていることが何だかボンヤリとしていてハッキリと認識できなかったのです。盛岡から釜石へは遠野を経由して約100kmの道のりです。叔父の様子も気がかりでしたが、今起きていることの一部でも自分の目で確認しておく必要があると思い釜石に向けて車を走らせました。
盛岡市内や途中の遠野市内ではガソリンスタンドに並ぶ車の長い列を何度も目にしました。コンビニも閉まっているところが多い感じでした。遠野の町を過ぎると、自衛隊の災害支援の車両が目立ってきて被災地が近づいているなと感じさせました。仙人峠道路を通って釜石の町に入ると、思っていたほど渋滞等の混雑はありませんでした。街道沿いは少し埃っぽい感じがしましたが、自衛隊の車両が多く走っている以外は普段の釜石の街並みが続いていました。しかしその風景も甲子川を渡り、釜石駅前を過ぎたあたりから一変しました。地震と津波の被害から約半月が過ぎているので、幹線道路は普通に通行できるようになっていましたが、道路の両側に広がる光景は信じ難いものでした。釜石駅から釜石製鐵所に沿って真っ直ぐ進むと釜石湾が見えて来ました。釜石湾に面した道路沿いの住宅地は見る影もない状態でした。自衛隊によって住宅地の中の道路が確保されていたので国道45号線から右に曲がり、津波に押しつぶされた家屋や車の残骸を目にしながら山沿いの道を目的の避難場所になっている小学校を目指して登って行きました。
避難場所の小学校で叔父が避難している教室を教えてもらい訪ねると、丁度出かけていて留守でした。側にいた人に聞くと、今の時間は自宅に戻っているかも知れないというので、山の斜面に広がる住宅地の上のほうに建っている鉄筋3階建てのアパートの2階に住む叔父のところに向かいました。アパートの駐車場になっている一階部分まで水が来た様子がありましたが、アパートは間一髪で難をまぬがれたようでした。元気そうな叔父と叔母に会って無事を喜びました。地震の時の様子を聞くと、叔父は揺れが大きかったので外で非難しているときに津波が来て、1階の駐車場に停めていた自分の車が波にさらわれて流されていくのを見ていたそうです。近くで働いていた叔母は職場で放送を聞いて自宅のほうに同僚と一緒に自転車で避難していたら、後ろから波が追いかけてきたそうです。慌てて高い道路に逃げて難を逃れたと言っていました。
これが私がこの目で見て、この耳で聞いた大津波の全てです。この津波で犠牲になられた方や被災され避難されている多くの方の心情を思うとき写真の掲載にはためらいもありますが、この事実を絶対に忘れないためにも自分の目で見た光景を今回に限り掲載します。

自衛隊の災害支援が被災地に入っていました。彼らの献身的な支援行動が被災地の人たちに力を与えてくれています。
タイトルの「ふるさとは負けない」は津波による大災害に立ち向かうためにローカル局で発信している言葉です。
三陸沿岸は歴史的に何度も何度も津波などの災害に襲われながらも、先人たちはその度に立ち上がり復興を果たしてきました。今回の大災害も必ず乗り越えて復興するものと信じています。











